坂内の匠
創業者

麺食会長 中原明が語る「坂内」

「坂内」のルーツは福島県喜多方市にある「坂内食堂」。偶然ともいえる出会いから、全国に展開するチェーン店が誕生しました。この出会いも含め、「坂内」ができるまで、そして広がりをみせてからも、たくさんの出会いや縁があり、今に続いています。ここでは、「坂内」を経営する株式会社 麺食の会長中原明が、「坂内」のこれまでとこれからを語り尽くします。

始まりは日本そば、その後立ち食いそば店を手がける

私は二十歳のときに飲食の道に入ったんです。もともとは日本そばの職人。半年修行して、千葉の幕張で自分の「信州そば 中原」という店を出しました。3年くらいやってから自分を試したくなり、店をやめさまざまな店で腕を磨きました。その後新宿歌舞伎町の店で働いていた頃、国鉄が民営化しJRになるという話が持ち上がったんです。すると、たくさんの余剰人員をどうするかという問題が生まれていた。そのときあがったのが、駅の中のデッドスペースを店舗化して余剰人員の人間をはめようという話でした。それで立ち食いそば屋を作るという話が生まれ、蒲田の店を作るプロジェクトに参加したんですよ。JRの完全子会社「サンフーズ」という会社ができて私は常務として入り、「大阪の味 うどん・そば めん亭」という店を作りました。わずか5坪の店だったのですが、1日2000食から3000食売りました。業界誌や有名雑誌にもよく取り上げてもらいましたね。これが28歳の頃です。「サンフーズ」ではほかに羽田空港「信州そば あずみ野」の立ち上げなどを行い、いろんなお店を携わらせていただきましたね。

始まりは日本そば、その後立ち食いそば店を手がける

偶然、知ることになった「キタカタ」ラーメン

それから数年経って、いよいよ国鉄がJRになるというときがやってきました。そのタイミングで「サンフーズ」で新たに売れるものを探そう、という話になったんです。「これからはラーメンの時代、ラーメンは若者の食べ物でもある」と「サンフーズ」の林社長はおっしゃってたんですよね。そういうこともあり、とにかく全国のラーメンを食べに回ったんです。林社長とは全国各地のあらゆるラーメンを食べました。しかし、私の考えの基本はそば屋。個性があるのはいいけど、あまり気をてらったものは好みじゃなかった。食べ物の原点はやはり朝のみそ汁に白いご飯だと思うんですよ。だからそば、うどん、ラーメンも庶民のものでないといけない。飽きないで小銭で食べられるものでなければ、と考えていたんです。学生時代、お金がなかったときもやはり最高なのはラーメンライスでした。あれが何よりもうまい。その想いがそのまま。でも、そんなラーメンは見つからず諦めかけていたんです。

そんなときに、大阪にラーメンを食べに行った帰りに伊丹空港から乗った飛行機の機内で「キタカタラーメン」という言葉を初めて聞いた。隣の乗客が「キタカタラーメン食べたかぁ、あれはうまいらしい」って話しているんですよ。もうそれを聞いて、すぐにキタカタラーメンをすぐ調べたんですね。「キタカタ」と耳でしか聞いてなかったから漢字もわからない。それで調べたところ日本に4つくらい似たような地名があったんですよね。さらに調べていったらどうやら福島らしいということがわかったんです。もともとJRとつながりが深い会社ですから、すぐに福島の喜多方駅の駅長に電話して情報収集したんですよ。すぐに、会社をあげて行こうという話になりました。

偶然、知ることになった「キタカタ」ラーメン

思い描いていた日本一の麺との出会い

会社の者数人と喜多方に行きまして、実際に喜多方ラーメンを食べたんですね。それですぐ「これしかないですよ」という話になった。麺が今まで食べたものとまったく違っていたんですよ。熟成された多加水麺は、やさしい、飽きない、ソフトな麺。うどんに近い印象で、一番自分たちの思い通りだと思いました。それでこの街の麺はスゴいということになって、私だけ現地に残り、麺めぐりを始めたんです。製麺所にまでたどり着きまして、それが今も「坂内」の麺を作ってくれている曽我製麺でした。「この街の麺は日本一だと思った」と当時の社長に言い、作り方を見せてもらったんです。小さいミキサーで作る工場だったんですが、驚いたことに熟成する環境がしっかりしていたんですよね。熟成させるボックスをいっぱい作って手間を惜しんでいない、だからおいしい麺ができるんだなと思いましたね。やわらかくてうまい麺ができる理屈ができていたんです。

思い描いていた日本一の麺との出会い

3日かけて「坂内食堂」に認められ、のれん分け

「よし、喜多方はいいぞ」となって、早速いろいろなお店を巡りました。そのとき私はもう、喜多方ラーメンを作りたいと腹を決めていたんですね。その後、曽我製麺の社長さんにこのことを伝えたら、「誰もいきなりは教えてくれないから曽我製麺のジャンパーを着て店をまわって覚えろ」というような話になったんですよ。そんなことがあり仕事後に、お酒を飲む場に連れて行ってもらったんです。そこで初めて「坂内食堂」の初代の新吾さんたちラーメン屋さんの人たちと会って、一緒にお酒を飲むことに。私はまだ30代前半と若かったので、誰にも相手してもらえないんですよ。それで、曽我社長も帰っちゃって。そしたら新吾さんに「明日の朝5時にはうちのかかあ(ヒサさん)が店を開けているから行ってみろ」と言われたんですよ。いやあ、これはシメた! と思いましたね。けれど、次の朝行ってみたらヒサさんはこういうんですよ。「どこの馬の骨かわからん。そんなヤツ聞いてない」ってね。完全に門前払いですね。それで待つだけの時間が2日過ぎ、3日目の朝。同じように店の前に立っていたんです。そのとき、地元の農家の方が縄で縛った泥まみれのネギを入口に置いて行ったんですよ。そこで私は、「お母さん、これ掃除しておくのか?」とヒサさんに尋ねたわけです。そこで「そうだ」と、ヒサさんにいわれた……その一言から今の「坂内」が始まったんです。

それでネギを洗って皮を剥いて、ネギを空中で切ったんですね。そば屋のネギ切りはまな板を使わないから。そうしたらびっくりされちゃって。それでやっと認めてもらえたわけですね。ここから1週間か10日くらい見習いを経て、やっとのれん分け、東京に戻ったんですよ。「坂内食堂」の味はあっさりしているでしょ。毎日食べられるというのが、私が思い描いていたものに近かったんですよね。ラーメンライスに一番合うのが、あれだったんですよ。

3日かけて「坂内食堂」に認められ、のれん分け

喜多方ラーメンの店が広がりを見せてゆく

「坂内食堂」の味を引き継いで有楽町の、9坪しかない場所に「くら」(旧内幸町ガード下店)をオープンさせました。蔵の街喜多方のイメージ、女性に好かれる店を作りたいと思っていました。家族、子どもたちが来て楽しんでもらえるラーメン店を作りたかった。有楽町はニッポン放送があるんですよね。そういうメディアの人たちにも来ていただいて、あれよあれよといううちに話題となった。いつも朝の開店前に30人くらいは並んでいました。テレビに出させてもらったりね、そういうこともありました。そんな中、新吾さんと一緒に全国のデパート巡りをしたのも大きかった。百貨店の物産展やラーメンのイベントに参加して知名度を高めていったんですね。過去にチェーン店を立ち上げたときの、マニュアル化、フランチャイズ化したという経験がここで活きました。けれど、マニュアルはできるけれどその先はすべて手作りなんですよね。だからこそ、お客さんの前に出すときは、本当に作りたて。そんな仕組みを作ろうと思った。このやり方こそがお客さんに一番距離が近いやり方だと思ったんです。「くら」のできた翌年、昭和63年、いよいよ「坂内」ができることになります。長野県の東部町に1号店が誕生したんです。元レストランの店長という人が手を挙げてくれ、お店を出すことになりました。長野の店も最初から元気でしたね。地元に根付いた、地元で老舗と呼ばれるような店を作ろうとは当初から言っていました。それで高円寺に直営店、その後茨城県の潮来店といった風に少しずつ店が増えていったわけですね。今も、昔働いてくださっていたパートの方同士、仲が良く、今も関係が続いているんですよ。

喜多方ラーメンの店が広がりを見せてゆく

これからも100年続く味「坂内」が目指すもの

これからも「坂内」は続いていきます。このブランドを高めていってほしいですね。「プレミアム坂内」、「ゴールド坂内」みたいな高価格帯の店だって作っていい。そんななかで、私はこう思っています。変えちゃいけないもの、すぐに変えるべきもの、将来変えていくこと、この3つを考えなければと思っています。変えちゃいけないものは歴史と味とブランド、電球が切れたら変えるなどお客さんが困るようなことはすぐに変えるべきもの、そしてこれからこうなっていこうという夢や目標が将来変えていくこと。この3つが長く飲食店に関わってきて一番大事なことだと思っています。これからは安さでものを買うわけではなく、「価値」の時代。ここで活きるのが企業の力です。企業がどれだけ考えてやっているか、というのが現れてきますね。

「坂内」の味はこれから100年続く味だと思っています。ネットでもどこどこに店を作ってくれ、みたいな有難いお言葉が書かれていて本当うれしいですね。30年以上働いているパートさんがいて、その方は毎日まかないがうちのラーメンなんですよ。それで、30年勤めても「飽きない」って言ってくれる。シフトの都合では2回食べることだってある。そのうえ、休みの日に子どもと旦那を連れてきて、出勤日じゃないのにラーメンを食べる。この話は、私の一番の自慢の話なんですよ。毎日飽きないという味に至ったというね。あとラーメンライスですよね。満足感が違う。今もランチはサービスライスを付けていますが、やっぱりラーメンライスがごちそう。その想いは子どもの頃、学生の頃と何にも変わっていないんです。こればっかりは、能書きなんていらなくて、本当おいしいですよね。

これからも100年続く味「坂内」が目指すもの
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